LA PARTE TEION DELL'SOCIETÀ MANDOLINISTICA DELL'UNIVERSITÀ DOSHISHA

同志社大学マンドリンクラブ低音パートホームページ

FONDATA NEL 1910
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低音とは?

 我が同志社大学マンドリンクラブ低音パートは、1910年(明治43年)に一人の神学部の学生が寮内に楽器と共にビールを持ち込んで紹介し数名のものと新聞紙を囲んで宴会を始めたことに端を発する。1919年にクラブが独立しそれと同時に低音パートも発足する。そして1922年に春秋3回の私宴会(低音コンパ)を開くことを決めてその第一回低音コンパを2月25日に開催した。・・・と、これでは回数が合わない。やはり1910年から毎年3回の低音コンパを行っていたことにする。このときの大将、メンバーなどは一切不明。

 低音パートとは、Celloパート、Loneパート、Bassパート、そして指揮者パートの総称である。またの名を『黄組(きぐみ)』と呼ぶ。なぜ黄組かというと、話が長くなるのでまた今度。

 当時ビールは珍しく手に入れるのは困難であったが、低音パート員はお金持ちの息子が多くビールによるコンパが主流となる。また低音パートに入るための儀式には日本酒が使われ厳かな雰囲気の中で行われる。そして、2回のマンドリンクラブ競演会が開催され2年連続優勝しクラブとして華々しくデヴューすると共に低音パート・コンパの名声も全国にその名を轟かせることになった。

 このようにして昭和初期の時代に最盛期を迎えた低音パートも戦時色が深まると共に低音コンパの開催が困難となり、1943年遂に創立以来の輝ける歴史を中断することとなる。

 終戦直後1945年再建にとりかかり、翌年ようやく細々と活動を開始。1948年に5年ぶりに低音コンパを再開し大阪進出を果たす。戦前からの伝統である、ビール・日本酒の流れによる低音コンパを復活する。

 1969年5月、S.M.D.は西ドイツのハノーバーで開催された全独マンドリン音楽祭に日本代表として招待され、その後1ヶ月に亘って欧州各国で演奏旅行を行う一方で低音コンパも大々的に開催された。低音コンパが海を越えたのである。今でもその筋の業界人の間では、“Teion Festival”として語り継がれているのである。

 真のマンドリン音楽の普及と発展を目的としており、年3回の定期低音コンパ、年1回の地方低音コンパを行う。特に『秋の大低音コンパ』は、ホームグラウンドとなった中島郡詰所(TEL:075-371-8042)において2泊3日の過酷な低音合宿を行う事で知られ、熱狂的なファンや地方からの参加者も多い。しかし、中島郡詰所はなぜか値上がりしたため、注意が必要であったが、現在すでに中島郡詰所に連絡は通じなくなっていることは周知の事実である。ホームグラウンドを失った我々は途方に暮れ、京都御所の片隅で開くようになっている。

 昔の熱い低音とはいかないが、我々は諸先輩が築き上げられた伝統を再認識し、今後とも真のマンドリン音楽の普及と発展に努めてゆく考えである。

(一部フィクションです)


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